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滑川河口に橋掛り、もうすぐ海開きの鎌倉。心なしか涼しい南風が吹きぬけていきます。
午前中は、現場で仕事の完了確認、午後は現場調査と順調にこなして、の夕暮。
帰りの渋滞が少々難ですが、おおむねいい流れで一日を終える。納得のひととき。
時の流れを横糸に置いて、経糸をたぐって織り込んでゆくような日々。
その時々の気持ちのありようが、自然に模様を描くのでしょう。
なかなかうまくいかず、玉になってしまったりつっかかってしもうことも、ままあります。
だからこそ、ひとりひとり独特な模様で織り上がってゆくのが人生でしょうか。
雲が描く空模様。沖縄からは梅雨明けの便りが届きます。
いい模様を織りなすよう、いい経糸をタテノリで♪
ちょうどいい塩梅で雨が上がったおかげですこしひんやりとして爽やかな朝が来る。
それだけで幸せな気分になれる、いいお天気の木曜日。現場出にはいいお日和です。
まんまるな太陽がオレンジ色のサッカーボールに見える。熱い闘いを冷静なアタマでね。
サッカーがチームプレーであるように、設計屋も一人自営業であっても、
たくさんの人々の手を借りて成り立つ商売です。手を出さずに口を出すのが現場なら、
その前段にはたくさんの数字、寸法や材料の大小、量、そして予算という数にかかわる
おおくの決め事があります。ひとのきもちをかたちにするには、数字にしなくちゃ。
それはひとえに、建築を設計するということは、予算を決めることだから。
いかに格好よく出来たって、職人さんが予算を削られていたりしたら、どこかに破綻をきたす
天網恢恢疎にして漏らさず、おおらかに考えきちんと確かめて数字にすれば、どこかで
だれかが、きちんと見ているものでしょう。昔の人はそれを「お天道様」と言ったのです。
花々のように凛として、働こう。いい木曜日を。
梅雨らしい曇り空で始まる水曜日。こういう週中は、すこしギヤをスローに切り替えて
ゆっくりと丁寧な仕事をするとしよう。人はそういう意識を持たないと、足元が決まらない。
もともとスローな約一名。静かに時の流れにまどろんでおります。
地味に地道にゆったりとした気持ちを持つことで、仕事は丁寧に出来る。
丁寧にするには、あわてずさわがず、静かに余裕を持つことしかありませんね。
時間に追われていては、丁寧からは遠ざかるばかり。今日はこれ、明日はこれ。
自分の持ち時間は余裕を持つと、自在に伸びたりもします。
個人の視点で淡々と、を「個視淡々」ということにして、本日の座右の銘とす。
造語でもなんでもいいんです。その日その一日でなにかテーマがあれば。
行雲流水は、ただ流されるだけでは、字義に反するから。では、よい週中を。
梅雨の中休みが続いてくれて、すこし得をしたようにも感じられる週明け。
水面に映り込む青空と木の葉の影絵。静謐な時間が止まって見えます。
五年ごとの更新である、一級建築士事務所の更新時期の案内が届いたので、
予てから珍しく揃えてあった書類を携えて事務所協会へ。顔見知りの担当の方に
「書類が完璧です!!」とお褒めの言葉を、思いがけずにいただき、いい気分です。
Sさん、どうもありがとうございます。
褒められて単純に上機嫌で、東横線に乗って渋谷ヒカリエに。
最終日の「原寸大」展を観ます。
時代ごとに、60年代四つ、70年代三つ、80、90、2000年代がそれぞれ一つずつ。
年代が下がるごとに少なくなるのは、原寸を描く時間が減って濃度が下がったのと
比例しているのかな?建築というものの現実としての原寸より、経済という現実のほうが、
より優先されて加速した現代だから。
鳥の視点で俯瞰する大局観と、虫の目で見、おのれの等身大の身体感覚と
モノの持つ強度と、それにふさわしい厚みや大きさ、堅さや触感の冷暖。
モノを考える時間の長さ、濃さに比例して上がり下がりする原寸大の密度。
シンプルに至るまでに、モノと格闘した痕跡を原寸図は残すものでしょうが、
そこに込められた意図や理想、夢の濃度と、建築の寿命には相関関係はない。
たとえいずれ壊されるモノだとしても、建築にどう思いを込めるか、だけが
設計屋の存在理由ですね。
結局、自分の身の丈である、等身大の自分の身体と、モノとしての素材の物性から
導きだされる原寸大。そのバランスを、現実の、見えない経済の中へ、
見える実存としてのモノとして、建築を「落とし込む」のが設計。
足元の花の身の丈。つまるところ、自分の感覚を磨くしかありませんね。日々是精進。
ずいぶんと長い間雨降りの中にいたような、グレイッシュな風景が一転、鮮やかに青空。
七夕飾りがきらきらと風に揺れて、強烈な陽射しに眼が眩むような金曜日がスタートです。
海の家がすこしずつ建ち上がって、屋根掛かりデッキにお邪魔してパチリ。
久しぶりの晴れ間、初夏を通り越して真夏の浜辺に、いい風が吹いています。
一人で日々やれることは、それほどありません。けれど、それを地道に繰り返していると
いずれどこかにたどりつく。身近な未来を大切に思うと、なにか出来るような気がします。
人が望むこと。それを運んだり届けたりかたちを変えたり、それも出来る範囲を無理せず
働く。無理すると、どこかで必ず無駄になるからこそ、する努力はある。
なにかを生み出すのが創造であるなら、日々の気持ちを身近な未来を想像することで
すこしずつかたちになるのかもしれませんね。晴れた金曜日を、よい日に。
これほどまでに、というくらいの雨模様。仕事場の紙資料がふやけて増量したかのよう。
屋根のソーラーも休業中。光が射さないことには、空気もよくは回りませぬ。
週末の晴れ間を待って、しばし辛抱。止まない雨はなし。
カラッとしたカナリアイエロー。彼の地のピッチで舞う侍蒼へエールを送ろう。
引き継いだ仕事も一巡して、これからは自分なりにペース配分し、先を見据えること。
ありがたいことに、より仕事量をいただいて、さてさてどうしよう。
ひとまず仕事山を小分けにして、こなす分量を把握しよう。そう思い立って、やっぱり一日。
デジタルの時代になっても地図やら図面やらは、紙の束になって「かさ」が見えないと、
アナログの身体が「身を持って」反応しないものですね。分厚くなったファイルを横目にして
ようやく人心地。梅雨時だから、焦ってばたばたするのもみっともない。
自分の声は、自分が一番よく聴いているもの。ココロ静かにマイペースにて。
いつもココロに青空を。行雲流水、こだわらず。湿気ないココロに潤いを。
もうじき開幕するワールドカップ。カラフルなユニフォームがグリーンのピッチの上を舞う。
時差もあることだし、上手に仮眠&うたた寝を混ぜ込んで、無理せず楽しみましょうか。
早めに降り出した雨が、この時期らしいといえば、まことにそれらしい。
季節がそれらしいならば、こちらもそれらしく過ごすとしますね。
梅雨の鎌倉は緑濃く深い。その濃淡のなかに、ひっそりとたたずむ花々の点景。
朝露や雨粒が宿るほどに、瑞々しく清々しく凛凛とある。
原色の溢れるピッチとは趣はことなるけれど、淡彩の彩りが目には鮮やかに映る。
今の季節の潤いが、夏から秋へと移ろいながら実りを迎えるように流れる。
淡彩であるけれども、そのグラデーションは一輪一輪個性が溢れて、生命そのもの。
淡いゆえに、どこか内に秘めた強さを持つ。人も同じかな。
白い紫陽花も、淡い紅や蒼をすこしずつ取り込んで身に纏う。
育つ居場所の色味が、花に現れる自然の摂理は、人も同じ。
ならば自分の居場所に合った己に、自然になるのが道理でしょう。
淡彩の季節に、身の回りの彩りを楽しむのがよろしいようで。
この時期らしい曇り空。すこし空気がしっとりとして、ひんやりと感じられます。
じきに降り出しそうな空も、六月らしいから、ただの空模様として淡々と瑞々しく過ごす。
すこしずつ建ち始めた海の家。フレームだけがうつくしくあります。
つい夏の終わりの、いそしぎのメロディを思い浮かべてしまうのが我ながら可笑しい。
雲の流れは刻々と移り変わり、その姿を変え風や雨を連れてゆく。
太陽系がすさまじい速さで銀河を螺旋状に疾走するのと、この静けさに満ちた地上の差。
きっと記憶の奥深いところで、生命の強さとゆうのは繋がっているのでしょう。
ラジオから流れる原坊の歌声が、アジサイの風景とリンクする一日の「行雲流水」。
足元の約一名。こいつほど「行雲流水」を体現してる奴はいねぇーなぁ。よい木曜を。
海の家がそろそろと建ち始める時期は、そろそろと梅雨入りの足音が聞こえてきます。
今日の晴れ間がしばらくお預けのよう。気持ちまで湿気ぬよう、カラッといきましょう。
久しぶりに事務所で過ごす一日。こういう日は机に向かって静かに集中。
リラックスとお茶はセットで用意して、普通の図面を普通に、淡々と仕上げてまいります。
霞む空と海のブルーグレーの、境目が曖昧になる季節。
これからは蒸し暑さのなかで、いかにいい風をココロに吹き込むか、がテーマですね。
海辺にもうすぐ出来上がる建物。カフェかなにかのようですが、著名な建築家の
さりげない仕事。やはり一流の人の仕事というのは、こういう小品に品が出ます。
人の営みが生み出すものに比べ、もの言わぬ野辺の花はうつくしく、よりさりげない。
梅雨の季節のグレーにも、凛とした色が滲んでいきます。
アジサイの季節。鎌倉はまたそれなりに混みましょう。
静かに凛として、佇む季節。
蒸し暑さが日毎に増して、ふと蝉の声を聴きたくなるような、微妙な感覚の朝です。
うつくしいシルエットの佇まい。すこしでも見習って涼しげに現場に出かけます。
日々是平凡でなにげない毎日が過ぎていきます。ひとり、なにに寄り掛かるでもなく、
すっと立つ。それが出来れば、いい一日が始まりますね。
これでいいのだろうか。と、悩むでもなく、でもどこかひっかかりながらココロを起こす。
なにかに寄り掛かれれば楽にはなりますが、その場しのぎであれば、本当の楽ではない。
ひとりで立つのって、楽じゃない時も時々あります。
そんなとき、友人から届く言葉。ひとりで立っている、なんて思っていても
どこかで支えられていたり、思い出されていたり、見てくれていたりするもんです。
海の家が建ち始めると、梅雨が間近い鎌倉。気持ちはさわやかに。
たくさんのペイントを空にむけまき散らすと
山下達郎さんのフレーズをリフレインしながら、晴れた陽射しの中へ。行ってきまっせ。
あちこちで猛暑日の六月スタート。暑さに身体がついていけず、汗かきべそかきの週始め。
こういう時期は、気持ちを楽に余裕を持って、ココロの風通し良くいきましょう。
養老先生と内田先生の身体対談の余韻で、自分の身体の声を聴くことに注目をする。
体調の変化は至極当たり前に毎日起こっているのだから、すこしはいたわって「聴く」。
アタマがよく働くには、健康な身体でいるのが前提ですね。傍にいる人を楽にするためには、
まず己が楽になっていなくっちゃ。ちゃんと聴くには、いい姿勢を無理せずに保つ意識で。
巷ではワークライフバランスですが、ココロとカラダのバランスがとれていればこその働き。
花のように、凛として佇むには、いい姿勢で前を向くことから始まりましょう。
六月の浜辺は、靄と赤潮で始まります。今朝の材木座は、スティーブン・キングの小説の
ような雰囲気が文字通り立ち込める、そんな日曜日です。
先日出かけた日比谷での養老孟司先生と内田樹先生の身体性対談。
お二人の出版に合わせて語られた「身体」。中世の時代の身体しかなかったことから
なにも残らない諸行無常の話。言葉にならない、生身の身体の言語?感覚とでも
ゆうような、おもしろい話が広がって楽しい時間を過ごします。
いっそ中世の時代のようにこれからをしてしまえ、なんていい発想ですね。
なにもない鎌倉が世界遺産になるはずがない、というところから始まった身体性理論?
お二人それぞれの、二冊の著作を読みながら対談を振り返るのも楽しみです。
これからは仕事のペースが上がって、やること山を登る季節がやって来ます。
こういう日には、言葉少な、ひとこと、少な目で過ごすとします。よい、休日を。
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